ギュスターヴ・モローの芸術 [The Art of Gustave Moreau]

アカデミック、ロマンティック、イタリア風:ギュスターヴ・モローは、数多くの成功した芸術家たちの、様々なスタイルの要素を取り入れて独自のスタイルを作り出しました。。彼が描く人物像の中には、時にミケランジェロ派の典型や、ダヴィンチ風の青みがかった背景や暗みのある明るさを見ることができます。しかし、大半の場合、彼の作品にはインドの細密画に見られるようなラインのように、版画作品から集められた数多くのモデルからインスピレーションを受けた、正確なラインやフォルムが混ざり合っています。そして、それらが解きがたいまでに組み合わさり、どんな作品にも似つかない、非常に個性的でオリジナルな作品に仕上がっています。モローにとって、絵画とは豊かな芸術であり、エナメルに匹敵させるものでなければなりませんでした。この理論の最たる例が「ユピテルとセメレ(Jupiter et Sémélé)」です。

モローが参考にすることを好んだダヴィンチやプッサンにとってそうであったように、モローにとって絵画は肉体に勝る精神力でした。自然の事象をキャンバスに再現するのではなく、まず精神に働きかけ、画家の奥深くから誕生するものだったのです。モローは、夢ややさしさ、愛、情熱、天に向かう宗教的な高まりに対する憧れすべてを魂が見出すことができる、高尚で力強く、道徳的で慈悲深く、想像の喜びを伴い、神聖で未知の神秘的な遠い国への旅立ちとなるような作品を制作しようとしました。そのため、モローの作品は、思考を促すものではなく夢を見させるものでなければなりませんでした。彼の作品は、鑑賞者を別の世界へと導くものなのです。

テーマの選択ですら、モローは現実や経験で得られるものではなく、それを超越したものを選ぼうとします。信心深くはないものの、非常に宗教的な精神を持ったモローは、絵画とは物質の美を映しだす鏡であり、魂や精神、心、イマジネーションの激しいほとばしりを映すもので、人類が求める神聖さに匹敵するものだと考えます。

「絵画とは、神の御言葉なのです!いつか、人々はこの沈黙の芸術の言葉を理解する日がくるでしょう。精神的な特徴や力が定義できないのがこの言葉であり、私があらゆる力を尽くして、線やアラベスク模様、造形手段で思考を表現しようとしているのがこの言葉なのです。つまりそれが私の目的なのです」


イタリアにて


18571018、モローはイタリアに出発します。イタリアは、ローマ賞コンクールに2回落選(1848年と1849年)して以降、彼が渇望した地でした。彼にとってこの旅行は、彼が表面的で情熱がないとみなしていた当時の歴史的絵画を一新させる使命を帯びたものでした。そのためには自身の表現力を高める必要があることを認識していたモローは、過去の芸術を参考にし、歴史的絵画が中身を取り戻すために不可欠な手段を得ようと決意します。若い画家が選んだ行程は、一般的なグランド・ツアーと同じものでした。しかし、モローには観光的な感覚はどこにもありません。訪れる街それぞれが、彼にとっては綿密にプログラムされた芸術的探究のステップだったのです。
到着後すぐに居を構えたローマで彼は、ルネッサンス時代のフレスコ装飾と、古代の傑作と出会います。ファルネーゼ荘でモローは、 ソドマ作「アレクサンダー大王とロクサーヌの結婚(Noces d'Alexandre et Roxane)」の詳細なデトランプの複製を制作します。この習作は、イタリアで制作された数多くの作品と同じように、モローが画家としての生涯において使用したモデルの1つなります。画家のフレデリック・ドゥ・クルシーと共に旅をした彼は、どんなひと時も無駄にはしませんでした。システィーナ礼拝堂に長期間滞在した後、彼はそのヴォールトの一部を模写し、アカデミア・ディ・サン・ルカに閉じこもります。彼はそこで、華麗な一作を制作します。それは、ラファエロの「プット(Putto)」のデトランプの模写で、イギリス貴族から購入の申し出を受けます。しかし、モローは自分の「子ども」と呼ぶこの「プット(Putto)」を手放しませんでした。サン・ルカを出立したモローはボルゲーゼ宮殿に立ち寄り、ヴェロネーゼの絵画の色彩に魅了されます。その作品は、「魚に説教する聖アントニオ(Saint Antoine de Padoue prêchant aux poissons)」でした。色彩と光のニュアンスに魅せられた彼は、コレッジョの「ダナエ(Danaé)」や、ホルバインの手によるものだと考えていたラファエロの「男の肖像(Portrait d'homme)」を知ります。美術館での授業が終わると、モローとクルシーはメディチ邸の「夜のアカデミー」に出席します。ここでは、特別な研究の場と、国家の研究生ではない芸術家にとって理想的な出会いの場が提供されていました。このようにして、彼らはテクニックと人体に関する知識を得ることができるようになります。彼らのために、モデルが毎日19時から21時30分まで、メディチ邸の1階の広間の一つに通い、ポーズをとってくれていたのです。ここでモローは、エミール・レヴィといったピコのアトリエ時代の旧友と再会し、エリー・ドロネーレオン・ボナそして若いエドガー・ドガと知り合います。春の到来と共に、モローはローマとその周辺の美しさに夢中になります。彼がセピア色や水彩色のような素晴らしい風景に気付いたのは、この時の事でした。モローは1858年の夏の初めまで、この永遠の街に留まります。
その後、フィレンツェに向かった彼は、そこで油絵とデッサンの研究を深めようと考えます。しかし、最初に彼の注意を引いた作品は、当時ティツィアーノ・ヴェチェッリオのエスキースだと考えられていた「カドーレの戦い(La Bataille de Cadore)」でした。彼は、その作品を模写を行います。ベネチア出身の画家の作品に対する関心は、ウフィツィ美術館でウルビーノ公と公爵夫人の肖像画を基に制作された2つの別の模写からもうかがえます。しかし、モローはフィレンツェの画家たちも侮蔑することなく、レオナルド・ダヴィンチがヴェロッキオの「キリストの洗礼(Baptême du Christ)」の中で描いた天使を慎重に模写します。彼のノートは、プリミティビズムからマニエリスムまで、トスカーナ出身の芸術家たちに関する研究ですぐに埋め尽くされます。
8月、モローは旅行に来た両親と合流するためにルガーノに向けて旅立ちます。合流するとすぐに、彼らはミラノに何日か滞在し、モローはアンブロジアーナ図書館で、レオナルド・ダヴィンチのデッサンを研究し、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの水彩画「東方三博士の礼拝(Adoration des Mages)」を模写します。
一家はベネチアに向かい、そこに9月までとどまります。モローは、アカデミーとサン=ジョルジュ=デ=エスクラヴォンで、カルパッチョの絵画に魅了され、「聖ウルスラ伝(Histoire de sainte Ursule)」と「聖ゲオルギウスの物語(Cycle de Saint Georges)」の模写を数多く制作します。クリスマス前に彼はフィレンツェに戻らなければなりませんでした。そこでは、エドガー・ドガが彼にボッティチェッリの「春(Printemps)」を見せようと待ち構えていたのです。しかし、モローは「ヴィーナスの誕生(Naissance de Vénus)」の方を気に入り、小さな模写を残しています。彼がオランダ芸術に傾斜したのは、おそらくこの2回目の滞在の時の事だったのでしょう。モローはウフィツィ美術館でヴァン・ダイクの「馬上のカール5世(Portrait équestre de Charles V)」を、そしてピッティ宮殿でベラスケスの「馬上のフェリペ4世(Le Portrait de Philippe IV à cheval)」を模写します。
ピサシエナドガと共に3日間滞在した後、モローは18593再びローマに戻ります。ここで、彼は最初の滞在の時に途中のまま残した作業を終わらせ、当時バルベリーニ宮殿に保管されていたプッサンの「ゲルマ二クスの死(La Mort de Germanicus)」の模写を制作します。7月、モロー一家は困難に見舞われながらも、イタリア旅行最後の目的地であるナポリに向けて出発します(イタリア統一戦争が発生した直後)。ナポリの滞在により、モローは古代文化に関する知識を深め、ボルボニコ博物館(現国立考古学博物館)に保管されている彫刻やポンペイの壁画に関心を寄せます。1859921、モローはイタリアを立ちますが、そのノスタルジックな思い出を一生胸に抱き続けます。

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テクニック


ギュスターヴ・モロー美術館に保存されているグラフィック作品は、モローのデッサンへの情熱と、透写や方眼線引きを経て、最初の一筆から最後の一筆まで、デッサンがモローの絵画の中で担った役割を表しています。
スタイルに関しては、モローのデッサンはネオクラシックに分類されます。19世紀前半に国立美術学校で学んだ芸術家たちの作品に見られるように、手本に忠実な、美しいアラベスク模様の探究が特徴だと言えます。モローは修業時代、肖像画の技術を教わったダヴィッド、アングレ、シャセリオーに似たデッサン方法を用いていました。
また、モローは生きている動物や、クロッキーなどから動物の習作も数多く制作し、自然からもインスピレーションを受けています。
教養深い彼は、古代のモデルや版画作品、写真などからインスプレーションの源を見つけます。彼は初版から百科事典「マガザン・ピトレスク(Le Magasin Pittoresque)」を所有していましたが、これは彼にとって、枯渇することのないモデルの鉱脈となります。
彼は、熱心に展覧会や国立図書館(当時の王立図書館、その後帝政図書館になる)の版画陳列室に通います。そこでインドやペルシャの緻密画を調べ、ルネッサンス時代の版画を研究します。多くの近代芸術家同様、彼もまた日本の浮世絵を収集します。全てのインスピレーションの源が、デッサンへの書き込みによく表れています。
彼は黒鉛鉛筆や鉄筆、黒鉛筆、木炭そして特に1860年以前はチョークを用います。また、彼は万年筆やインクでデッサンを行いました。最終的に彼は、絵画の最終的な下絵に写すことができるトレーシングペーパーを用います。
水彩画では、彼はそのバリエーションや自信、人々に見せることをためらうような秘められた大胆さを作品に投影しています。モローは、この技術があまり評価されていないにも関わらず、最も優れた作品を制作することができると気付きます。「この小さな水彩画を制作しながら、私が気づいたことは、私がうまくできる唯一の事は、私が時間をかけずに行うことなのです。 これは不思議なことだと思います。」大半の絵画は、その意味を理解するために、ある程度知的な説明を必要とするにもかかわらず、水彩画の場合、それ以前に美しさに圧倒されるのです。モローは、それを繰り返し生徒に向かって強調します。「色の想像力を持つように」。dd your content or responce #2

ギュスターヴ・モローと象徴主義



正確な定義では、象徴主義とは厳格な文学運動であり、ジャン・モレアは1886年に「ル・フィガロ(Le Figaro)」の中で運動のマニフェストを発表しています。科学が課す合理主義的な思考から逃れたいという考えが、数多くの19世紀の芸術家の間に広がります。実証主義や自然主義とは異なり、この文化的な流れは、19世紀末のヨーロッパ各国に拡大します。
1897年、死の前日モローは、画家として文学的すぎるという不当な意見に一生苦しんだと述べています。彼は、「物事に対する先見の明、直観は、芸術家と詩人にのみ与えられる」と考えていました。モローは、歴史絵画を引き合いに出しながら、この瀕死の分野に新しい風を吹き込みます。彼にとって、自分の芸術に故意に精神的な意味を与える「ワイン商人の芸術」程嫌なものはありませんでした。
過去の伝統に従い、彼は自分の「内側のきらめき」を絵画に表現、想像の優位な役割に没頭しようとします。アンドレ・ブルトンが述べるように、その才能は古代の神話と聖書の物語を再びよみがえらせたことでした。大胆にディテールを重ね、前代未聞と言えるほど線と色を用いることで、モローは何よりもまず、その創造物の神秘さを保とうとします。シュルレアリストたちが、その後継者を主張するのは驚くべきことではありません。


ギュスターヴ・モローとフォーヴィズム



自然と過去の偉大な芸術家たちを見てください。あなたを作り出すのは、彼らだけなのです」ギュスターヴ・モロー

死の床で、イタリア旅行(1857年-1859年)からずっと親交が続いていた画家エリー・ドロネーはモローに対し、国立美術学校の教師の職を引き継ぐよう依頼します。1891年、ドロネーはこの世を去り、1892年、モローはその職に着任します。彼はこの世を去るまで国立美術学校で教鞭をとり続けます。そして、合計125名の生徒をこの世に送り出します。その中には、アンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アンリ・エヴェヌポエル、シャルル・カモワン、アルベール・マルケなどがいました。
国立美術学校の生徒の他にも、彼は1903年に立ち上げられたサロン・ドートンヌ展の共同設立者、ジョルジュ・デヴァリエールを弟子として迎えています。モローのアトリエは、1905年に批評家ルイ・ヴォークセルに「野獣(フォーヴ)の檻)」と言わしめた反逆者的存在のサロン・ドートンヌ展出品者が好み、特にルネ・ピオ、ジョルジュ・ルオー、ポール・ベニエール、シャルル・ゲラン、アンリ・マティス、ジョルジュ・デヴァリエールといったモローの生徒たちが数多く姿を見せ、交流した場だったようです。
モローの話の才能や、個性を発展しさえすれば、自由を許した彼の寛容さにより、彼は全ての賛同を得ました。師に対する生徒たちの熱意は、いたるところで表現されています。ジョルジュ・ルオーは、モローが自身が常に抱いていた個性の尊重に対する懸念を、皆には共有せずにいたその姿勢を称賛しています。マティスは、モローに対する恩義を次のように述べています。「友人の一人が、ローマの学校で学ぶものは何もないと私を説得したため、私は自分の経験を基に作業に取り組み始めました。そして足を踏み入れたアトリエで、ギュスターヴ・モローと出会い、その面での大きな援助を得たのです

他の教師たちとは異なり、モローは生徒たちと個人的な繋がりを持ちたいと考えました。偉大な芸術家たちを非常によく研究したモローは、生徒たちにルーヴル美術館に通うことを勧めます。マティスは、それは当時ほぼ革新的と言っていいほどの姿勢だったと述べています。モローの死に際し、ルネ・ピオは悲嘆に暮れます。「彼の言葉は私にとって非常に重要で、もうそれを得られないと思うと、非常に苦しく感じる」これは誰もが共有した感情でした。


ギュスターヴ・モローと抽象主義


1903年に美術館がオープンした時、最初の鑑賞者たちを驚かせたことは、下書きの多さでした。耽美主義者ロベール・ド・モンテスキューは、「完成した作品をそこに求めないように」と述べています。しかし、批評家は、「エスキースと未完成の病」と酷評します。これらの下絵に人々が関心を寄せるようになったのは、1960年代に入ってからのことでした。
新しい芸術の流れの先駆者となることを知らずに、ギュスターヴ・モローは死の直前、達成された解放の喜びを語っています。「もはや誰かに対して自分の弁護をしたり、欲したり、何かを示したいとは思いません。私はようやく過去の偉大な芸術家に対する敬服と、自由に表現できるという唯一の喜び、そしてあらゆる判断から逃れられるという有益な状態にたどり着いたのです」。伝統の重みから解放されたギュスターヴ・モローは、歴史的絵画のテーマを完全に抽象化させずに、一部の対象を「タシスム」で表現しようとします。水彩画「聖アントワーヌの誘惑(La tentation de saint Antoine)」は、この新しい方向性を完璧に示しています。
現在、抽象画として分類される非常に多くの絵画、水彩画などの多くは、モローによって保管されていましたが、彼は生前それらを見せることはありませんでした。美術館が開館するに当たって、初めて描かれた下絵が額に入れられ、主に1階に展示されることになったのです。
画家による説明が残されていないため、その解釈は今なお解明されていません。