ギュスターヴ・モローについて [Biography]

ギュスターヴ・モローについて

Portrait photographique de Gustave Moreau

182646
ギュスターヴ・モローはパリで、
建築家の父ルイ・モローと母ポーリーヌのもとに誕生します。父親はモローにクラシックな文化の基盤を学ばせ、母は体の弱かったモローの面倒を見ます。

1836-1840
ローラン中学に就学。
13歳で姉カミーユを失くしたギュスターヴ・モローは、健康上の理由で中学を退学します。父は、彼にバカロレア取得のための勉強をさせます。8歳の頃から、彼はデッサンを描き続けます。

1841
初めて北イタリアを旅した彼は、デッサンアルバムを持ち返ります。

1844-1846
ギュスターヴ・モローは、パリの公共物や教会の装飾者であるネオクラシックの画家、フランソワ=エドゥアール・ピコの私的なアトリエに頻繁に足を運びます。ここで、王立美術学校の入学試験の準備に取り組みます。

1846
ギュスターヴ・モローは、王立美術学校に入学を果たします。

1849
モローは、ローマ賞の獲得に2回失敗した後、王立美術学校を去ります。

1849-50
彼は、ルーヴル美術館で模写を行い、美術学校からいくつかの注文を受けます。

1851
モローは、アングルのかつての生徒テオドール・シャセリオーと親交を結び、彼のアトリエの近く、ピガール広場に近いのフロショ大通りにアトリエを構えます。シャセリオーがモローに与えた影響は大きいものでした。

1852
モローは初めて公式のサロンに認められます。彼は劇場とオペラに足繁く通います。彼の両親は、彼の名義でラ・ロシュフコー通り14番地にある一軒家を購入します。彼のアトリエは、4階に作られます。

1856
テオドール・シャセリオー死去。

1857-58
1857年10月から1859年までの間、2回目のイタリア滞在を経験します。偉大な芸術家たち(ミケランジェロ、ヴェロネーゼ、ラファエロ、コレッジョなど)の作品の模写を行います。ローマに滞在した後、彼はフィレンツェ、ミラノ、ベネチアを訪れ、そこでカルパッチョを知ります。若いエドガー・ドガと親交を結びます。両親とナポリに滞在した後、1859年9月パリに戻ります。デッサンのモデルとなったアレクサンドリン・デュルーに出会ったのは、その直後だと言われています。彼女は、1890年に他界するまで、モローの「最高でたった一人の女友達」となりました。

1862
2月、モローの父が他界。

1864
サロンに「オイディプスとスフィンクス(Oedipe et le Sphinx)」を出品し、ナポレオン公によって購入されます。

1865
11月、ギュスターヴ・モローは、皇帝ナポレオン3世によってコンピエーニュ城に招待されます。

1869
サロンに「プロメテウス(Prométhée)*と「エウロペの略奪(L'enlèvement d'Europe)」*を出品します。メダルを授与されますが、批評家からは酷評されます。そのため、1876年まで出品を行いませんでした。

1875
レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受章。

1876
サロンに踊るサロメ、「ヘラクレスとレルネのヒュドラ(Hercule et l'Hydre de Lerne)」、「聖セバスティアヌス(Saint Sébastien)」、水彩画「出現(L'Apparition)」を出品します。

1878
パリ万国博覧会に絵画6点を出品。

1879
モローは、ラ・フォンテーヌの「寓話(Les Fables)」に基づく水彩画を64点制作(個人所蔵)。そのエスキースはギュスターヴ・モロー美術館に保管されています。

1880
サロンに「ヘレネ(Hélène)」と「ガラテア(Galatée)」を出品。これがサロンへの最後の出品になります。

1882
美術アカデミー会員に立候補するものの、落選。

1883
レジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を受章。

1884
母の死をきっかけに、深い悲しみに沈みます。

1886
モローは多面書板「人類の生(La Vie de l'Humanité)」*を完成させます。
グーピルのギャラリーで展覧会が開催されます。これは、モローの生前に唯一開かれた個展でした。

1888
美術アカデミー会員に選出されます。

1890
恋人アレクサンドリン・デュルーが死去。大きな悲しみにくれたモローは、「エウリュディケの墓の上のオルフェウス(Orphée sur la tombe d'Eurydice)」*を制作します。

1892-1898
エリー・ドロネーの後を継ぎ国立高等美術学校の教師に着任。そこで、ジョルジュ・ルノーアンリ・マティスアルベール・マルケ, アンリ・シャルル・マンギャンエドガー・マクサンスなどに絵画を教えます。
日曜日になると、彼は自宅に生徒やアルニー・ルナン、ジョルジュ・デヴァリエールといった芸術家たちを招きます。

1895
彼は晩年の傑作「ユピテルとセメレ(Jupiter et Sémélé)」*を制作し、ラ・ロシュフコー通り14番地の自宅を死後、美術館にできるよう改築します。

1898

4月18日死去。パリのトリニテ教会で葬儀が行われ、モンマルトル墓地に埋葬されます。

*ギュスターヴ・モロー美術館所蔵作品